「生きる力」に学力は含まれないのでしょうか?~子どもたちの可能性を狭めない教育観を考える~

友人との会話で感じた違和感

こんにちは。Happy Education Lab.の宮脇です。

 

先日、友人の集まりでこんな話をしました。

「子どもたちの生きる力を伸ばしてあげたい。どんな将来が来ても、自立して自らの判断で生きていける、そういう子たちをたくさん育てたい」と。

基本的には皆さん賛同してくれるのですが、ある方からこんな言葉が返ってきたのです。

「勉強ができる・できないに関係なく、そういう子が育てられるといいよね」

 

もちろん、その通りなのです。

勉強ができる・できないに関係なく、そういう子が育てられるといいです。

 

でも、どうしても違和感が湧いてきてしまうのですよね。

なぜそこで勉強だけが挙げられるのでしょうか?

学力を除外してしまう考え方への疑問

いわゆる「勉強ができる」というのは、試験の点数が取れるという意味ではなく、学力がある、つまり物事を考える力があるという意味での「勉強ができる」は、生きる力の中に含まれてよい力だと思うのです。

 

ところが、そこを除く形で生きる力というものは構成されなくてはいけないという考え方を持つ方に、一定の割合で出会うことがあります。

 

これは少し、子どもたちがかわいそうだなと思うのです。

 

基本的に子どもたちは、実際に自分ができる・できないに関わらず、小学校・中学校・高校、そして大学の間を、学力を身に付けるという目的の場所で20歳までの多くの時間を過ごします。

 

その中で多くのことを学び、そしてそれができるようになるために膨大な量の努力をつぎ込みます。

 

それが途端に20歳を超えて、社会で生きる力とか、力強く自分の人生を選択するという人生の場面に関わってきた瞬間に、「そんな力は実は関係なかった」って宣言してしまうのは、ちょっとあまりにも酷ではないでしょうか。

 

もし本当にそうなのであれば、小学校1年生の段階からそう言ってあげるべきですし、現実そうではないので、多くの子たちが勉強というものに勤しんでいるのだと感じています。

学力も「生きる力」の大切な要素の一つ

もちろん、勉強が苦手だとしても生きる力を身に付けることができないのかといったら、そんなことはありません。

例えば私は、地頭力の中に愛嬌であるとかレジリエンスであるとか、そういった力も、具体的な力として挙げています。そして、それと同列で学力を考えてほしいのです。

 

愛嬌がない子は生きる力がないのかというと、もちろんそういうわけではないですよね。

 

愛嬌があったほうが多くの方に可愛がられて、コミュニケーションが取れるという人生を進める場面も多くあるでしょうけれども、愛嬌がない子が即座に生きる力がないかというと、そういうわけではありません。

 

それと同様なのです。

学力はあったほうがいいです。

考える力はあったほうがいいのです。でも、なかった、苦手だとしても、だからといって生きる力を身に付けることができないという話でもないのです。

総合的な力で子どもたちの未来を支える

大事なのは、総合的に自分が自分の人生を主体的に進めるだけの力を持つこと、それを進めていきたいなと思っています。

 

勉強ができる・できないという一面的な力だけを取り上げて、それを除外するというのは少し違うような気がしています。

子どもたちは一人ひとり異なる力を持っています。

学力も、愛嬌も、レジリエンスも、すべてが大切な要素なのです。

 

皆様はどのようにお考えでしょうか?

【この記事を書いた人】

宮脇慎也(保護者向け教育コーチ)

 

・20年以上の教育現場経験

・700組以上の親子面談実績  

・中学生の偏差値を平均7ポイント向上させた実績

・進学空間Move塾長として地域教育に貢献

・2030年までに1万組の親子の成長をサポートすることを目標

 

広島大学大学院社会科学研究科博士課程後期修了。2013年から広島市で学習塾を運営し、個別演習型指導で多くの生徒の学力向上を実現。近年はキャリア教育にも注力し、社会人講師を招いた講演会を多数主催。

 

Happy Education Lab. 運営者